TRANSPARENT APARTMENT

自己の文章を展開し、索引するための場所です。これらの particle あるいは parcel の堆積は、一種の成長する稿本のようなもので、完成の概念はありません。ノンブルは参照の便宜のためで、前後の繋がりを意味しません。

かそけき肉体 - 002

  必要もないのに、海辺を独り歩くときがある。靴を脱いで、打ち寄せる波に足を浸し、その柔かな襞を感じようとする。それは次第に薄く透きとおりながら、剥きだしの脛に沿ってすべり、微細に揺らぐその表面に反射した日射しを、束の間だけ足元に煌かせる。陸続と訪れては柔かく崩れかかる風の包絡(envelopeが、この緩慢な繰り返しのなかに佇む者の髪を乱し、泥と塩水の匂いを立ち昇らせる。(まるで頬で風と会話しているかのようだ。)そして私の乾いた舌は、濡れた風のなかに微かな海の味を探り取る。そのとき私は自分が肉であることを感じる。また同時に、世界が私と同じ肉からできていることを。

  肉である私の存在は、私が出会うものによって絶えず横切られ、通り過ぎられ、その通過の律動によって刻まれている。世界は私を刻むものとして私に姿を現わし、そして私は、この風と戯れつつ、自らの刻まれによって描かれた世界のなかを歩き廻る。私を包み込んで広がるものが私において現われ、自らが生み出すものの内部に常に生まれつつあるものとして、私たちは在り、この容れ子について何も理解できないまま、私は現にこの事態を生きている。

  どのようにして、私自身が橋であり、それを渡る者でもあることができるだろうか。肉と心の繋がりをたどることが問題なのではない。それをたどる視線は、どの道この螺旋の中に捲き込まれてゆく。感じることにおいて、忽然と世界として在るようなもの、肉とはそのように在るものだ。その眺めが結ばれる場所を問うのであれば、それはこの橋上の往来としか表現できない。この橋が私の肉である。そして私が決して到達できない向こう岸からやって来るものと出会い、すれ違うのも、この橋の上である。

  私は足を止め、自らを渡る風に刻まれつつ、そのことに或る快さを感じながら、佇み続ける。感じられるものはいつも透明で、何ひとつ意味がない。それはただ異なった味や強さの刺激に過ぎない。水に書かれた名前のように、それらは肉の上に様々の模様を滲ませては、跡形もなく消え失せてゆく。そのような物事の在り方は、私に自然という考えを想起させ、或る安らぎを与えてくれる。そのとき私が眺めているのは、生命の樹を伝わり落ちる、純粋な時間の滴りなのか。

  しかし私は透明ではない。刻まれの隙間に滴り落ちたそれらは、様々の味わいを伴って、より深くへと染み込んでゆく。肉が微かに刻まれるとき、その顫えは、植物のように絡み合う神経を伝わってゆく。肉の向こうには、季節の中で次第に成熟する暗い領域がある。其処では様々な思いや考えが葉叢のように繁り、私たちはこの場処において、私たちに現れる模様(pattern)に名前を与える。思いはやがて落ち葉となり、次なる生を育むための覆いとなる。「時」によって休みなく彫版され続ける現在において、心は透明な対象に名前を書き込んでゆくだろう。景色には感情のようなものが附着して滲んでゆく。そして何時しか、累なり合った世界の方が私の名前を呼び始めるのだ。

  私たちは署名されている。私たちの先人たちによって、私たちの選ばれなかった過去によって。私たちは溢れる痕跡のさなかで成長し、痕跡を残さずに存在することはできない。生成の過程において痕跡は范型となり、降り続ける時間の雨のなかで当初のそれが洗い流されて後も、その印形は生きて変わり続ける私たちの肉に刻まれ続ける。互いに干渉し変容する痕跡の群れが、私たちの輪郭を定義している。自然のあり方としての滅びに触れるとき、跡形もなく消え失せることへの憧れを自分のなかに感じ取るとすれば、それは私たち自身がどうしようもなく何かの痕跡として存在しているからではないのか。

  肉によって閉じられたものを、開くことはできない。互いの肉によって隔てられた閉包(particle)である私たちは、しかし孤立した痕跡なのではない。私たちは相互に交通する。私たちは互いの証人となる。私たちは互いの熱を伝え合うことができる。このとき私たちを隔てる肉は、同時に私たちの開かれでもある。肉に刻まれたこの開かれを覗き込むとき示されるもの、捲れ上がった手紙の端に見出された署名のような、これが意味なるものの兆しなのか。私たちの間の手紙であり、私たちが意図的に生産する痕跡である記号は、いかなる天使によって綴られ、運ばれているのだろうか。そこには私たちの精神という、別の繁みへと続く繋がりが見出される。私は自らのそれを辿って、私たちの深みへと降りてゆきたいと思う。