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TRANSPARENT APARTMENT

自己の文章を展開し、索引するための場所です。これらの particle あるいは parcel の堆積は、一種の成長する稿本のようなもので、完成の概念はありません。ノンブルは参照の便宜のためで、前後の繋がりを意味しません。

断章I - 001

孤独な言語(海が島々を繋ぎ交易をもたらすとしても)

Obscuritéについて

原義は「覆ハレタ」。

①闇。暗黒。c.f. camera obscura

②難解さ、晦渋さ。曖昧さ、不明瞭さ。謎。

③世に知られぬこと。無名。 

  ソクラテス以前の哲学者ヘラクレイトスは「暗い人」(ὁ σκοτεινός)と呼ばれたが、キケロラテン語でそのことを表現する際にobscurusの語を用いた。「『自然についてあまりにも晦渋に語ったがゆえに「暗い人」と称されている』ヘーラクレイトス…」(†1)、又「ヘラクレイトスはとても晦渋だ」(†2)。ルクレティウスも亦、彼が「難解な言語のために有名」(clarus ob obscuram linguam)であると述べている(†3)。なお、このclarusには「明るい、明瞭な」(c.f.clarté)という意味もあり、ヘラクレイトスの「クレイトス」の部分に対応するラテン語でもあって、ルクレティウスの言葉遊びなのだという(†4)。

  トリスタン・ツァラの詩にLe grande Complainte de mon Obscurité Troisというのがある(Vingt-cinq poemes所収)。岩波文庫『フランス名詩選』ではこれが「わが難解三号の大いなる嘆き唄」(入沢康夫訳)と訳されている。この詩は他に1番、2番があることから、「わが闇の大いなる嘆き歌3」とか「わが暗闇の大いなる哀歌Ⅲ」(†5)という方が一般的な訳なのかもしれないが、個人的に「難解三号」というロボットの名前のような訳が好きだった。

  私の内面にあるObscuritéについて語るとき、このカテゴリを用いる。

†1 De fin. ii. 5. 15.(「善と悪の究極について」、岩波書店キケロー選集10』p.72)。なお、別の個所ではoccultusという語も使われている。「ヘーラクレイトスのように、わざと曖昧に述べているわけでもなく…」(Nat. deor. i. 74.「神々の本性について」、『キケロー選集11』p.53、原文nec consulto dicis occulte tamquam Heraclitus…)

†2 Div. ii. 133.(原文valde Heraclitus obscurus.)

†3 Lucr. i. 639.

†4  Montarese, Francesco. Lucretius and his sources : a study of Lucretius, "De rerum natura" I 635-920. De Gruyter, 2012. p.184, 註521.

†5 それぞれ大平具彦、塚原史訳『トリスタン・ツァラの仕事2 詩篇』(思潮社 1988)、小海永二, 鈴村和成訳『七つのダダ宣言とその周辺』(土曜美術社 1988)所収。

エフェメラ序説

 近頃、「エフェメラ」という言葉を身辺で見かけることが、以前よりも増えてきたように思う。とはいえ、この言葉の世間的な認知度は、まだそれほど高くはない。 

 「エフェメラ」とは、元々「一日しかとどまらないもの」という意味のギリシャ語で、そこから一般に「はかないもの」を意味するようになった。

 昆虫の世界では蜉蝣の類を指すのに用いられ、植物の世界ではephemeral plant(各種の短命な植物)という言葉もあるという。

 そして資料の世界では、この語は、「日々の生活に由来しまた帰属するはかなく零細な文書の類」(†1)「印刷されたか手で書かれたかしたもので、特定の短期的な用途のために生み出され、総じて廃棄される運命にあるもの」(†2)などの意味で用いられる。

 例えば、名刺、ポスター、煙草の箱、絵はがき、招待状、メニュー、切符、クーポン券、催し物のちらし、広告入りのマッチラベル、書きかけの原稿、カレンダー、扇子、商品を紹介する小冊子、薬の包み紙やエチケット、はずれくじ、手書きの地図、植物の種袋、トランプ、伝票、診断書、ショップカード、ダイレクトメール、フロア案内図、子供に文字を教えるためのカード、記念切手、記念スタンプ、運転免許証、処方箋、ありとあらゆるラベルや包み紙、あらゆるメモ、これらはいずれも「エフェメラ」の範疇に含まれるものである(†3)。

 これらの「エフェメラ」に関わる人は、「エフェメリスト」(ephemerist)と呼ばれる。「エフェメリスト」には収集家だけではなく、その保存管理に関わる人、エフェメラを資料として利用する人、エフェメラを売買する人、そして純粋な愛好家など、様々なひとびとが含まれる。英国のThe Ephemera Society(1975年創立)からは、その名もThe Ephemeristという雑誌が刊行されており、この分野での一つの中心になっている。(敢えて訳すなら『エフェメラ人』というところか。なお、ephemeristには「蜉蝣の類の収集家」という意味もある。)

 

 エフェメラに該当するものを収集したり研究したりすることは、日本でも盛んに行われてきた。その一方で、「エフェメラ」の概念そのものは、これまで余り注目されて来なかったように思われる(†4)。

 趣味や収集の世界では、「紙もの」という言葉が「エフェメラ」にかなり近い内実を持っており、例えば『ペーパーコレクション入門 紙くず収集百科』(野島寿三郎編 日外アソシエーツ 2003.2)といった文献を見ると、その対象の多くが「エフェメラ」とも重なり合うことが分かる。

 また、研究の世界では、引札・番付・絵はがき・マッチラベルといった特定の資料類型や、演劇・旅・医療・飲食といった特定の主題分野に関しては、一定の蓄積がある。

 しかし、これらの活動は、飽くまで各方面での必要や関心に応じて独立になされたものであり、分野を越えて相互に参照されることは、これまで余りなかったのではないだろうか。

 私が此処で述べたいのは、各種の零細な資料を繋ぐものとしての「エフェメラ」というカテゴリーを導入することによって、情報をめぐる文化史に新しい眺めを開ける可能性がある、ということである。

 

 エフェメラの重要な特徴として、以下のような点が指摘できる。

(1)情報を運ぶと同時に、モノ―「実物」(realia)でもあること。

(2)その生産・流通・消費が都市の文明と結びついていること。

(3)我々の実際の生活という最もミクロな局面において具体的な役割を担っていること。

 もし十分なエフェメラが保存されていなかったとしたら、過去の人間の生活はどのように理解されるだろうか。

 それは例えば、地下鉄の乗り方についての情報があって、実物の切符が存在しないようなものである。最も望ましいのは、切符の「実物」が残っていることである。次に、実物が失われたとしても、写真や絵画といった切符の「イメージ」が残っていれば、かなり具体的にそれを把握することができる。ただし、切符に独特の厚ぼったい紙の硬さや手触り、印刷の匂いなどの情報は、失われる。イメージも保存されていない場合には、切符に言及した「言葉」から、それがどんな物だったかを再構成することになる。突飛な例のようであるが、資料の残存が少ない時代については、実際にこのような事態が起こっているといえるように思う。

 もちろん、言葉とイメージと実物は、互いに補完し合う異なる特性を持った情報源であり、優劣をつけることはできない。例えば、実物そのものが残っていたとしても、過去の人の証言がなければ、当時の人々がそれについてどのように考えていたのかを知ることは難しい。しかし、かつて人々が体験していたであろうものを、後世の人間が身体的な具体性を持って感じ取るためには、エフェメラはとりわけ重要な資料となる。何故なら、現在の我々が、過去の人々によって体験されてきた当のものを、その経歴も含めて、実際に追体験できるからである。

 

 エフェメラはまた、或る社会における「敢えて言及されないような、無意識的に通り過ぎられている事柄」についての情報をもらたすという点でも、特異性を持った資料である。

 或る存在の痕跡に対し、保存の労が取られるようになるのは、その価値が人々に認識されることによってである。著名な人物や大きな役割を担った団体は、様々な場所で言及され、つまりは間接的に記録され、同時にしばしば自らのアーカイブを保管している。収集されたそれらの痕跡は、伝記や社史、資料集のようなレコードとして編集され、参照しやすい形で流通することにより、さらに容易にアクセスされるようになる。こうして、かつて存在したものの痕跡は、一般の歴史に組み込まれる。

 しかし、ある町の片隅に限られた期間だけ存在した、我々が日頃行きつけにする小さな店の歴史を、後世の人間が辿り返すことは、より難しいだろう―実際には、或る人の生活にとって、そこが極めて重要な場所だったかもしれないにも関わらず。何故なら、誰も敢えてその痕跡を保存しないからである。しかし、例えば吉祥寺、西荻窪といった或る街区のすべての店のショップカードが系統的に保存され続けたとしたら、50年後の人々はそれをユニークな資料として眺めるだろう。

 日常を充たしている対象を、歴史的な距離を持って眺めることは難しい。しかし、我々の生の営みを実際に取り巻いているのは、殆どがこうした匿名的な存在ではないだろうか(†5)。敢えて保存された痕跡の背後には、過去の人々が意識することもなく通り過ぎてきた無数の風景がある。エフェメラは、いつの間にか失われてゆくこの種の過去に触れるための手がかりとなる資料ということができる。

 

 以上に述べてきたように、エフェメラは、個人の日常の生という最も微視的な歴史への視野を開いてくれる資料であるが、同時に、我々の社会における情報やイメージの生産、そこに反映した風俗や生活様式、つまりは或る一つの文明の姿を、総体として俯瞰するための観点をもたらしてくれるものでもある。

 エフェメラは或る社会の日常と結びついて生産されるが故に、歴史性だけではなく地域性も有している。エフェメラの概念そのものは欧米において発達してきたものであるが、この概念を日本に適用すると、瓦版や番付、箸袋、駅弁の掛け紙のような、日本に固有の類型が見出される。同様に、この概念を各地域に適用すれば、それぞれに固有の類型が見出されるだろう―あたかも蜉蝣の変種のように。各地域についてこうした類型の標本(specimen)が集成されれば、異なる文明の間での比較考察も可能になり、いわば情報の形態学、文献の類型学が成立する。それは、情報と社会の関わり、特に都市の生活における情報のあり方について、新たな見解をもたらすだろう。欧米では先年、エフェメラ研究の成果を集成したThe encyclopedia of ephemera : a guide to the fragmentary documents of everyday life for the collector, curator, and historian(by Maurice Rickards, edited and completed by Michael Twyman.  Routledge, 2000)が刊行されたが、この種の研究がそれぞれの地域で行われることが望まれる。

 

 エフェメラという観点を導入することにはもう一つ、零細な資料や、それについての研究へのアクセスを整備するという利点もある。

 各地の公的・私的なコレクションには、エフェメラに類する資料が多く保存されている(†6)。その中には、様々な場面で活用し得る資源が含まれている可能性があるが、どのようなものが何処にどれだけ存在しているのか、全体的な見通しは存在しない。抑々、エフェメラの目録法そのものが、十分に確立されているとは言えないかもしれない。図書とは別のカテゴリーとして、それらが系統的に解析され、基本的な書誌が整備されることによって、初めて広く研究に活用される途が開け、保存への意識も変化して来るものと思われる。

 

 以上のような見通しの上に立って、「エフェメラ友の会」(または蜉蝣会、The Ephemera Society of Japan)のような団体が日本にもいずれ出来ないだろうか、というのが、私の輓近の夢想の一つである。

 この団体は、あらゆる種類のエフェメリストを受け入れ、飽くまで趣味、楽しみとしての観点を排することなく、資料・研究としての観点も追求する。そして以下のような活動を行うであろう。

(1)エフェメラに関する交流の場となる媒体の運営

(2)国内エフェメラ総合目録の編纂(+7)

(3)エフェメラ研究文献書誌の編纂

(4)情報の類型学・文化史の研究

 これまで述べてきたことは、飽くまで胸臆の構想に過ぎないものだが、各方面の人が集まって様々なエフェメラの話を交換するのは、それ自体が都市が生んだ活動の一齣として、興味深いことではないだろうか。

(2017年3月方寸邸主人記) 

†1)原文「transient minor documents of everyday life」(Maurice Rickards. Collecting printed ephemera. Phaidon, 1988. p.13)

†2)原文「printed or hand-written items produced specifically for short-time use and, generally, for disposal.」(Maurice Rickards. Collecting printed ephemera. Phaidon, 1988. p.14)、1975年11月発行The Ephemerist創刊号における定義。

†3)ただし、あらゆる自然発生的な範疇がそうであるように、エフェメラとは何であるかを厳密に定義することは困難である。例えば、厚紙で出来た立体的なパッケージや、メッセージが刺繍されたワッペンは、エフェメラに含まれるのか、エフェメラとパンフレットの間の境界はどこにあるのかなど、色々な問題が想定される。

†4)きちんと調べた訳ではないが、管見では「エフェメラ」の概念に言及した日本の文献として、田中正明氏のplaybill(演劇ビラ)に関する研究は、比較的初期のものではないかと思われる。

田中正明ヴィクトリア時代タイポグラフィ』(オフィス・リテロ、2006.6)p.139-141によると、同氏はJohn Lewis.のPrinted ephemera(Cowel, 1962)を読み、1963年の渡英の折ロンドンの古印刷物店でヴィクトリア朝期のplaybillを購入し、それらを研究した成果を1969年以降に順次発表した。(なお、前掲Collecting printed ephemera. p.58によると、John Lewisのこの著作は、欧米においてもエフェメラの認知度を高める上で影響が大きかったものという。)

その後、1980年には、同氏の研究を参照した小野二郎「端物印刷物の世界」も発表された(『グラフィケーション』1980年9月号初出、1981年2月初版『紅茶を受け皿で』所収)。

「端物印刷物といわれるのは、書物雑誌のようにいわゆるページ物にまとめられない印刷物、たとえば領収書、伝票、ちらし、名刺、はがき、招待状などの一枚ものをふつう指す。町の印刷屋さんの仕事ということになろうか。(中略)この端物印刷物を英語ではプリンテッド・エフェメラ(printed ephemera)といい、つまりかげろうのように、ごく短期的な用途のための印刷物をさすようだ。端物というより、あるいは範囲が広い感じである。(中略)これらの印刷物は、生活の都市化、経済の大衆化の結果であろう。つまり、直接消費者向け商品の大量出廻り、政治のような公的活動への大衆参加、都市的娯楽の発展といったことが前提になる。したがって、イギリスでも十九世紀の初めになってからやっと定着した印刷分野である。しかし、産業革命以前にも、あるにはあった。契約書、操船者免許、道路使用料切符、布告文、命令書、たばこや茶の包紙など。十八世紀半ばには芝居の切符、トレイド・カード、請求書、瓶物に貼るラベル、文房具、ピン、香水などの包装紙を刷るのに、ジョビング・プリンター(jobbing printer)といわれる端物専門印刷業者たち(書物と新聞は刷らない)は結構忙しかった。

だけれども十九世紀に入ってから、全印刷業のなかで、これら端物印刷物が書物印刷より、量的にははるかにしのぐに至ったのである。これは民衆生活の内容の変化展開にむろん対応する。」(『小野二郎著作集2 書物の宇宙』p.256-257より引用)

ここでは既に、エフェメラが都市や近代文明の発達と結びついていることが指摘されつつ紹介されている。

最近では、『建築雑誌』2010年1月号が特集「エフェメラ −短命な建築媒体を後世に−(Ephemera-Short-life Architectural Media for Prosperity)」を組んだほか、和田光弘「18世紀アメリカに関するエフェメラ : ワシントン・受領証・手形」(『名古屋大学文学部研究論集 史学』60 p.17-40 2014.3)は普通の人々の生活の実相を知るためにエフェメラが有効な史料であることを述べ、「テキストとテクスチャーは一体」という観点からエフェメラの「テクスチャー」(材質、形態、様式等)を詳細に検討している点が興味深かった。他にも以下の例のような様々な分野からの言及がある。

伊藤真理「音楽分野のグレイリソース」(『情報の科学と技術』62(2) p.66-71 2012.2)

☛三宅敦子「18世紀から20世紀初頭にかけてのココアの広告の変遷 : The John Johnson Collection of Printed Ephemeraに収蔵された製菓会社の広告についての研究」(『西南学院大学英語英文学論集』55(1-3) p.147-161 2015.2) ※筆者未見

☛下山晃「菓子のEphemeraとジャポネズリー―広告、パッケージと大衆意識」(『大阪商業大学論集』1(1) p.161-171 2005.6) ※筆者未見

また、エフェメラという概念に言及している訳ではないが、エフェメラを主要な資料として活用した研究の例として、増谷英樹『ビラの中の革命 ウィーン・1848年』(東京大学出版会 1987.1)は興味深かった。

紙もの収集の世界でも、加藤郁美『シガレット帖』(Ephemera note 1 倉敷意匠計画室 2011.4)やブライアン・ディー・コールマン著『ヴィンテージ紙もの雑貨コレクション : カヴァリーニから届いたエフェメラたち』(原題Vintage Ephemera 中村亜希子訳 グラフィック社 2015.7)のように、「エフェメラ」という語を使用する文献が増えてきたように感ずる。

†5ただし、一口に匿名性といっても、まったく記録されることなく湮没した状態から、情報は散在するが敢えて注目されていない状態、誰もが認知している状態など、その度合いは様々である。情報が散在する場合も、電話帳の一行にその名を留めるに過ぎない場合、名鑑の一頁を占める場合など、異なる“濃度”が存在する。

†6これらのコレクションは、ある人物や団体が自身に縁故のある資料を保存していた場合と、コレクターによって意図的に収集された場合とがあるように思う。とりわけ問題なのは「貼込帖」(scrapbook)という保存形態のもので、通常の図書館等の目録方式だと中に何が含まれているのか分からない場合が多い。

著名の人物の手に成るもので、中身が詳しく紹介された例としては、幕末の漢学者、大槻磐渓(1801-1878)の『積塵成山』を取り上げた工藤宜『江戸文人のスクラップブック』(新潮社 1989.8)、日本の博物館制度の創設に貢献した博物学者、田中芳男(1838-1916)の『捃拾帖』を紹介したモリナガヨウ『捃拾帖 東京大学の学術遺産』(KADOKAWA 2014.6)などがある。

†7瓦版についての東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター『摺物総合編年目録 第二稿』(東京大学史料編纂所 2000.7)という例が参考になる。

かそけき肉体 - 001

天使に身体があるとしたら、それはどんな肉か。